縁の切れていた亡父の莫大な負債、支払うべき?

相談者 AYさん

  • イラストレーション・いわしま ちあき

 「お父さん、死んじゃったのか…」。父の死を知らせる黒い縁取りのはがきが届いたとき、悲しみの感情が全くわいてきませんでした。

 私が生まれてすぐに父は外に愛人をつくり、それから30年以上、別居状態でした。ほとんど顔を合わせたことがありません。私をこの世に誕生させた父の肉体が消滅したことで、父との一切のえにしもなくなったもの、と思っていました。ところが、父の死後も、その影から逃れられないでいるのです。

 父が亡くなったのは、昨年の夏です。父と同居していた女性からの葬儀の通知で知りました。父は闘病の末に亡くなったそうです。

 私は、父と母が一緒になってからすぐに生まれました。しかし、父は結婚当初から母とは折り合いが悪く、やがて他の女性と関係をもち、子供までつくったのです。夫の裏切りに母は耐えられず、私を連れて実家に戻りました。それから、離婚はしないまま、別居状態が続いたのです。

 「どうして、私にはお父さんがいないの」

 幼い私の問いかけに対し、母はただ黙っていたのを覚えています。父とのことを母は、ほとんど話しませんでした。複雑な事情を、傷つかないように教えてくれたのは、私をかわいがってくれた叔母です。

 叔母によると、父が「浮気はしない。心を入れ替える」と両手をついて謝るので、私が幼いころ、母とよりを戻して同居したこともあったそうです。しかし、それも長続きしませんでした。

 その後、物心ついてから父に会ったのは10歳くらいの時だったと思います。父の母親(私の祖母にあたります)の葬儀に参列した時で、以来、個人的にも連絡を取ったことはありません。父のことで苦労していた母に悪いという思いがあったからです。

 母は、父から一切、生活費や養育費をもらうことなく、実家の援助を受けながら私を育て上げてくれました。母には感謝の気持ちでいっぱいです。その最愛の母も、父との確執による心労がたたったのか、5年前に亡くなりました。

 父の葬儀は、郊外の小さなセレモニーホールで執り行われました。同居の女性が喪主を務めました。棺おけの小窓に見えた父の顔の目元は、自分とそっくりでした。

 喪主の女性からは、父の財産についての話は全く出ませんでした。私も、父の財産は一切当てにしていませんでしたし、そういった生臭い話はいやだったので、形式的な世間話だけして財産の話はしませんでした。父には特に資産も負債もなく、質素に暮らしていたのだろうと思っていたのですが……。

 父が死んでから半年以上もたったある日、私は、銀行からの突然の連絡に驚きました。なんと、父に3000万円の貸し付けがあるので返済してほしいというのです。銀行側は、父の死後に戸籍などを調査して、法定相続人である子どもの私を捜し出したのでした。

 驚いた私は、これまでのいきさつをすべて説明しました。ところが、銀行の担当者は「事情は分かるが、既に相続放棄ができる期間は過ぎているので、あなたは娘として、父親の財産を相続したことになる。法的には支払ってもらわなければ困る」と一点張りです。

 何十年も会ったことのない父の負債を、支払わなければならないなんて不条理です。払わないで済む方法はあるのでしょうか?(最近の事例を参考に創作したフィクションです)

回答


相続放棄は相続開始の時から3か月以内に行わなければならない

 遺言書がない場合には、被相続人(本件ではご相談者のお父様を指します)の遺産は、法定相続人が法定相続分に従って相続することになります。お父様と同居していた女性は法律上の妻ではないため相続権はありません。従って、お母様が既に5年前に亡くなっていることから、銀行担当者が指摘するように、子供であるご相談者が法定相続人となり、全ての遺産を相続することになります(民法887条1項)。

 相続人は、相続開始の時(被相続人の死亡の時)から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継することになり(民法896条)、「プラスの財産」だけでなく、「マイナスの財産」、いわゆる負債も相続することになります。財産よりも負債の方が多い場合、相続人は、親から承継した負債を承継し、返済しなければならないことになるわけです。

 しかし、親の残した借金を相続人である子供が必ず返済しなければならないというのはきわめて不合理です。そこで、「相続放棄」という制度が法律で認められていて、相続人は、相続を自らの意思によって放棄することもでき、その場合には初めから相続人にならなかったものとみなされます(民法939条)。

 また、相続人が遺産を相続するときに相続財産を責任の限度として相続すること、つまり、相続財産をもって負債を弁済した後に、余りが出ればそれを相続できるという「限定承認」という制度も認められています。

 ただし、相続放棄または限定承認をするには、相続人が自己のために相続の開始のあったことを知った時から3か月以内に行う必要があり(この期間を「熟慮期間」と言います。民法915条)、この期間内に相続放棄または限定承認をしなかった場合には、自動的に、相続を承認したことになってしまいます(「単純承認」 民法915条1項、921条2号)。

 ご相談者の場合、お父様がなくなった旨の通知を受け、その葬儀にも出席しているので、通常は、通知を受け取った時が、「相続人が自己のために相続の開始のあったことを知った時」となります。そして、その時点から3か月の熟慮期間を経過した後では、原則として相続放棄又は限定承認はできず、相続人であるご相談者は、相続について単純承認したことになります。したがって、ご相談者が3000万円のお父様の負債を相続したことになり、銀行担当者の言うように返済しなければならないのが原則となるわけです。

 ちなみに、3か月の熟慮期間内であれば、熟慮期間を延長することを家庭裁判所に申し立てることもできますが(民法915条1項但書)、熟慮期間経過後にはそれも認められていません。

3か月以上経過していても相続放棄できる場合がある

 さて、原則としては上述のとおりなのですが、3か月の熟慮期間経過後は全く相続放棄や限定承認ができないとすると、ご相談者のケースのように非常に過酷な結果となってしまうことがあります。そこで、裁判所は、熟慮期間の起算日、つまり、相続人が自己のために相続の開始のあったことを知った時を緩やかに解釈して、例外を認めるケースもあります。

 最高裁判所は、「熟慮期間は、原則として、相続人が相続開始の原因となる事実及びこれにより自己が法律上相続人となった事実を知った時から起算すべきものであるが、相続人が右各事実を知った場合であっても、右各事実を知った時から3か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかったのが、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の事情からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって、相続人において右のように信ずるについて相当な理由があると認められるときには、相続人が前記の各事実を知った時から熟慮期間を起算すべきであるとすることは相当でないものというべきであり、熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時から起算すべきものと解するのが相当である。」としています(最高裁判所昭和59年4月27日判決)。

 ご相談者のケースの場合、お父様とは30年以上別居状態が続いていたこと、その間連絡もほとんど取っていなかったこと、お父様の葬儀の際に同居していた女性から資産や負債について全く話がなかったこと、銀行からの連絡があって初めてお父様に負債があることを知ったことなどの諸事情を考えあわせると、熟慮期間の起算日は銀行から連絡があった時と判断される可能性が高いと考えられます。実際にも、ご相談者のケースとほぼ同様の事例において、例外として、相続放棄が認められた裁判例があります(広島高等裁判所昭和63年10月28日決定)。

 同様に、高松高等裁判所平成20年3月5日決定は、相続債務について調査を尽くしたにもかかわらず、債権者からの誤った回答によって、債務が存在しないものと信じて限定承認または放棄をすることなく熟慮期間が経過するなどした場合には、相続人において、遺産の構成につき錯誤に陥っているから、その錯誤が遺産内容の重要な部分に関するものであるときは、錯誤に陥っていることを認識した後、改めて民法915条1項所定の期間内に、錯誤を理由として単純承認の効果を否定して限定承認または放棄の申述受理の申し立てをすることができると判示しています。

裁判所が相続放棄を認めなかった場合とは?

 他方、裁判所が熟慮期間経過後の相続放棄を認めなかった事案もあります。

 大阪高等裁判所は、平成21年1月23日判決において、相続人が、相続から数年後に貸金返還請求訴訟を受けて、被相続人の多額の債務の存在が判明した事案において、熟慮期間を繰り下げるべき特段の事情はないと判断し、熟慮期間経過後の相続放棄を認めませんでした。

 この事案は、被相続人の死亡後に、相続人間において遺産分割協議がなされたところ、その際、特定の相続人が、被相続人には不動産等の積極財産や、約7,600万円の債務(消極財産)があるが、積極財産の方が消極財産を若干上回るとの前提で不動産の一部や債務の一部を相続したところ、後日、相続時に認識していなかった第三者から訴訟を提起され、被相続人の当該第三者に対する債務が元金だけでも3億円以上あったことが判明したために、相続放棄の申述をしたというものです。

 それに対して、裁判所は、前記昭和59年の最高裁の判示を前提とした上で、相続人には、被相続人が死亡した時点において、その相続財産の有無及びその状況等を認識または認識することができるような状況にあった(少なくとも相続財産が全くないと信じるような状況にはなかった)し、被相続人に積極財産及び消極財産があることを認識して遺産分割協議をし、不動産の一部について相続登記を経由し債務も弁済していたような事情に照らせば、本件訴訟提起まで本件債務のあることを知らなかったとしても、熟慮期間を本件訴状送達日から起算すべき特段の事情があったとはいえない旨を次のように判示しています。

 「控訴人(注:相続人)が被控訴人(注:訴訟提起した貸金業者)の本件訴訟提起まで本件債務の存在を知らずにいて、かつ、本件債務を加えると控訴人が本件遺産分割協議によって相続した消極財産が積極財産を上回り、当事者間で本件遺産分割協議が無効になったとしても、控訴人は、遅くとも本件遺産分割協議の際には、春男(注:被相続人)に積極財産のみならず多額の債務があることを認識し、これに沿った行動を取っていたといえるのであって、このような事情に照らせば、控訴人について、熟慮期間を本件訴状が控訴人に送達された日から起算すべき特段の事情があったということもできない。したがって、控訴人がした相続放棄の申述は相続開始から3か月を経過した後にされたもので、その受理は効力を有しないものというべきである。」

 以上のように、相続放棄については、あくまで熟慮期間の存在を前提とし、その期間を徒過とか(何もしないで過ごす)した場合には基本的に放棄が認められないものの、事案によっては、例外が認められることがあるわけです。

 前述のように、ご相談者の事案では、例外として相続放棄が認められる可能性が高いと思われますが、仮に例外として認められる場合であっても、熟慮期間の起算日が、通常の「被相続人の死亡の時」ではなく、そこから後ろにずれて、銀行から連絡があってお父様の負債の存在を知った時と判断されるだけですから、いずれにしても、その時点から3か月以内に相続放棄をしなければなりません。従って、ご相談者は、できる限り早急に、自ら家庭裁判所に赴いて相続放棄の手続きをするべきと思いますし、裁判所の対応によっては、弁護士に相談するべきかと思います。

相続放棄の具体的なやり方

 では、相続放棄の手続きとはどのようなものでしょうか。

 民法は、「相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない」と定めています(民法938条)。

 この相続放棄の申述には、<1>相続放棄申述書<2>被相続人の住民票除票又は戸籍附票<3>申述人(放棄する人)の戸籍謄本<4>被相続人の死亡の記載のある戸籍謄本等が必要になります。この点は、申述をする家庭裁判所に問い合わせをするなり、家庭裁判所のホームページでご確認下さい。

 なお、相続放棄の申述をする裁判所は、被相続人の住所地の家庭裁判所になりますので、ご相談者の場合、お父様の住所地の家庭裁判所にする必要があります(家事審判法9条1項29号、家事審判規則99条1項)。

 仮に、家庭裁判所で相続放棄の申述が認められなかった場合でも、2週間以内に高等裁判所に即時抗告をすることができます(家事審判法14条)。前述した広島高等裁判所昭和63年10月28日決定も、家庭裁判所で相続放棄の申述が認められなかったのに対して即時抗告がなされ、高等裁判所が相続放棄の申述を認めたという事例です。

2012年05月09日 10時10分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

 

 


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